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【2017/09/24 17:28 】 |
徴兵制の歴史(日本 その2)
多忙により、更新が滞っていました。久しぶりに記事を書きます。

前回、古代から明治維新前までの日本の徴兵制の歴史について概観しました。今回は、明治維新後から太平洋戦争敗戦までの日本における徴兵制の歴史について論じようと思います。

明治維新の後、欧米列強の軍事制度を模倣して「徴兵令」が施行され、20歳の男子に対して「徴兵検査を受ける義務」が課せられるようになりました。この徴兵検査によって、甲種、乙種、丙種、丁種という段階に分けられ、甲種に判定された男子の一部だけがくじ引きで実際に軍に入営させられるという状態となりました。当初は男子のうちの1割~2割程度が実際に入営する程度であり、当時は「外地」扱いであった北海道に戸籍を移したり、大学に進学するなどして合法的に兵役免除になる割合も高いものでした。夏目漱石は北海道に本籍地を移動させることにより兵役免除となっていますし、他にも大学を卒業すれば徴兵免除という規定があったので、兵役逃れの目的で進学する人も多かったようです。

しかし、日露戦争が勃発して、それまでは甲種判定であってもくじ引きで一部だけ入営していたのですが、甲種に関しては全員入営させられる状態となりました。ただし、大学大学中は徴兵猶予の特典が与えられており、卒業すれば徴兵免除となったので、そのような合法的手段により兵役を逃れる人もいました。その当時、「非戦論」という思潮が存在し、公然と日露戦争に反対する世論も一定の強さを維持していましたが、結局、良心的兵役拒否運動が組織化されることはありませんでした。内村鑑三などは非戦論を唱える一方で、兵役拒否に関しては否定的であり、徴兵拒否を相談しに来た青年に対して、「家族や親戚のためにも兵役には行った方が良い」と述べています。内村の無教会派のキリスト教の考え方は、要約すると「自分が兵役拒否することで、代わりの誰かが死ぬことになるのならば、自分が犠牲になれ」というものでした。ここが日本の「非戦論」の限界であり、欧米諸国で組織化された良心的兵役拒否運動とは異なる部分でした。これに対し、欧米諸国では第一次世界大戦の頃から良心的兵役拒否の運動が組織化され、イギリスやアメリカでは代替役務が制度化されました。なお、日本でも数名のエホバの証人の信者が個人的に兵役拒否を行い、兵役法違反で有罪判決を受けるものも存在しましたが、組織化された運動ではなく、代替役務も合法化されないままとなりました。

日露戦争終結後は、再びごく少数の甲種合格者のうちの一部だけがくじ引きで入営する時代がしばらく続きました。大正時代は政治的には「大正デモクラシー」と呼ばれるリベラルな風潮であり、第一次大戦の後の国際的な軍縮時代でもあったため、軍の兵員も限られたものとなり、徴兵もごく一部の者に限られていました。

しかし、昭和時代に突入すると、じわじわと軍国主義的な思潮が論壇を支配するようになり、軍備の拡張、兵員数の増加がなされることとなりました。中国大陸への進出と戦線の泥沼化により、兵員数の増強が軍部から求められるようになり、再び甲種合格者は全員入営させられる時代が到来します。ただし、まだ大学卒業による徴兵免除の特典は残っており、合法的に兵役を免除される者も存在していました。昭和10年代(1935年~1945年)に入り、日独伊防共協定、更には、日独伊三国同盟が結ばれ、本格的に中国大陸や東南アジア諸国へ石油などの資源を獲得するために進出することとなり、甲種だけではなく乙種までも徴兵される事態になりました。更に1941年に東条英機が首相であった際に、アメリカの真珠湾への攻撃を行って日米で開戦することとなり、日本軍の兵士の数が急激に増え、徴兵される者も爆発的に増えていきました。一旦、兵役に服した者に対しても繰り返し召集令状が出され、何度も戦地に出征する人が増えていきました。

そして、1943年(昭和18年)になると、大学在学中の徴兵猶予特例が停止され、文科系の大学生に対する徴兵検査が実施され、甲種と乙種に分類された者は、大学を休学して軍隊に入営させられることとなりました。これを「学徒出陣」と呼びます。ただし、丙種に判定された者と理科系学部・学科に在学中の者は引き続き猶予されたままとなりました。この「理科系」に関してですが、農学部に関しては徴兵猶予が継続される学科と継続されない学科があり、農業経済学科に関しては「文系」と見なされて徴兵猶予が停止され、学徒出陣させられました。また、1944年頃には丙種も徴兵対象とされるようになり、手足が無い、耳が聞こえない、目が見えない、理科系に在学中などの一部の者を除いて、殆ど全ての男子が徴兵される事態となりました。終戦直前の1945年には徴兵率は9割にまで上昇し、日本軍の兵員は700万人を超えていました。特に、1943年に学徒出陣した年代が最も悲惨であり、入学前に徴兵猶予が停止されるということを事前に知らされていなかったために、文科系に入学してしまい、そのまま休学して入営し、特攻隊や玉砕部隊に配属させて戦死させられた人数が多くなりました。1944年に大学に入学した者の場合、事前に文科系は徴兵猶予されないという情報を聞いていたため、文科系から理科系に進路変更をする者が多数存在し、大学の側でも理工系の定員を増やし、文科系の定員を縮小する措置を取ったため、本来は文科系の学問を学びたいという希望を持つ者までも理工系の学部へ入学するようになりました。また、この時期は軍医の不足を補うために、「医学専門学校」が多数、設立されており、本来は大学の医学部を卒業しないと医師免許を取得できないはずが、専門学校卒でも取得できるようになっており、兵役逃れの目的で入学する者も多数存在しました。この種の徴兵逃れ目的で理工系や医専に進学した者は、終戦と同時に文系に転向する者が多数現れました。

そして、1945年8月15日に終戦となり、徴兵制は廃止されました。その後、現在に至るまで日本においては徴兵制は施行されていない状態が続いています。

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【2012/06/08 08:37 】 | 徴兵制度 | 有り難いご意見(0)
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